愛と憎しみの歴史『ドクトルジバゴ』


デヴィット・リーン監督の『ドクトルジバゴ』を見た。きっと欧米人が利用者の大半を占めているであろうサイト、IMDBを見ると、これは39351usersから平均8.0点という高得点をつけている。こいつら中国映画の傑作とかにはけっこう悪い点をつけてるくせに、欧米の古典映画には高い点をつける。これはやはり、欧米人には欧米人が演じる映画のほうがしっくりくる、つまり登場人物の心の動きがよく分かるからだろう。逆に、この映画、いまの若い日本人にはあまり受けがよくないだろうと思う。


実際、日本人には、わかりやすいロマンスシーンはともかく、普段能面のような顔で会話する欧米人の感情はじつはすごく読み取りにくい。ぼくは多少は慣れたが、やはり日本人や中国人のほうが細かな表情の動きがあるので、感情を読み取りやすい。というか、じつは欧米人は、他人との日常的な会話でいちいち感情を動かさないので、これは当たり前のことなのだ。実際、この映画でも、人物が家族や親しい人物と話す時と、他人と話すときの表情はまったく違う。そして、この点はどうでもいいことではない。

どういうことか。この映画は、近しい人への愛と、近しくない人への憎しみ、この二つの対立の物語だ。より正確には、近しい人への愛に生きる人と、近しくない人への憎しみに生きる人、この二種の人物の対比の物語だ。前者の代表はユーリ、後者のはパーシャ。この対立は、ロシア革命以来60年にわたって続いた。

国対国の戦争は、とくに他国を憎んでいなくても、利害の対立から起きうる。しかし、内戦は国民の間の憎しみによって生まれ、内戦が続けば続くほど憎しみは深くなっていく。日露戦争当時のロシアは、国対国の戦争と同時に、内戦の火種を抱えていた。もともと貧富の差が激しかったロシアで育っていた憎しみの種は、1905年の血の日曜日事件によって花開くことになった。軍が人民を虐殺したこの事件によって、皇帝はもはやロシア人民に愛されなくなっていく。

ロシアという国には、愛国心というものがあまりなかった。当時のロシアの上流階級はみんなフランス語を使っていた。これは、ロシア語というものを低く見て、フランスやその文化を自国のものより高く見るという姿勢が常識的なものだったということだ。そんな上流の連中が、ロシア語しか喋らない下層階級をどう見ていたか容易に想像がつく。思うに、ロシア人は自分らの国土や自分の国の人間をあまり好きではない。『ドクトルジバゴ』でも繰り返し描かれているが、冬になるとロシアはひたすら寒く、暖が取れないことがすぐさま死を意味する世界になる。冬に完全に凍てつく、人を拒絶する土地を愛せというのは無理があることなのだろうか。実際、今でも、ロシアでは愛国心をいかに根付かせるか、ということが国家的問題となっている。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/2333

日本でもフランスでもそうだが、北に行けば行くほど、他人に対する警戒心や嫌悪感が強くなる。ロシア人の65%がゲイやレズビアンの隣人に嫌悪感を、33%が外国人の隣人に嫌悪感を示しているそうだ。これはちょっと驚くべき数字だ。この数字は、彼らがもともと他人というもの全般に強い嫌悪感を持っていなければ絶対に出てこない。1905年に戻れば、65パーという数字はそのまま、下層階級が上層階級に、上が下に嫌悪感を持つ割合に置き換えられるだろう。1919年にこれは白軍が赤軍を、赤軍を白軍を憎む割合になり、1936年にこれは「反革命分子」がそれ以外を憎む割合になる。

ロシア内戦では800万人が死亡し、数百万人がロシアを離れたと推定される。スターリンによる大粛清では、最大約700万人が死んだと推定されるらしい。独ソ戦で死者 1500~2000万人が死んだと推定されているので、それに匹敵する数の死者をロシア人はお互いに殺しあうことで出したわけだ。この国に、何か根本的な問題がまったくなかったと思うのは完全に無理だ。

日本国内では、この規模の虐殺は歴史上一度も起きていない。幕末に内戦があったが、そこでどれだけ戦死者があったか。全部合わせても数万人規模だろう。日本人同士が日本全土で憎しみ合い、数百万人も殺し合う、というような風景を想像することは決してできない。だが、ロシアではそうした光景が日常だった時代が数十年も続いた。20世紀のロシア、そこでは人々が互いに憎しみ、敵対しあい、人類史上かつてない規模の大量虐殺を同族同士で繰り広げた、そんな世界だった。『ドクトルジバゴ』の原作者ボリス・パステルナークは1880年に生まれ、この小説を1950年代に書いた。彼はロシアで起きていたことを間近に見、体験し、最後にこの小説を書いたのだ。この小説が書かれた背景とその意味を理解することには、この作品の意味を理解することはできないだろう。

映画では、ユーリはじつに普通の人間として描かれている。正義感が強いわけでも、社会正義に燃えるわけでもなく、どちらかというと運命に翻弄されて生きるしがない医者でしかない。逆に、ローラの夫であるパーシャは信念をもつ青年として登場し、血の日曜日事件に巻き込まれて怪我をする。彼とローラは田舎に移り住むが、革命が勃発するとパーシャはローラを捨てて革命軍に身を投じ、やがて冷血な虐殺者になっていく。パーシャはかつて不貞をはたらいたローラを許すことができず、人への憎しみに食いつぶされるような人生を歩む。逆にユーリは、偶然再会したローラと不倫するようになり、妻と彼女の間で苦悩する。

どちらもクズと言えばまあそうなのだが、ユーリのほうがはるかに人間らしい。さらに言えば、パーシャの苦悩は憎しみからできているが、ユーリの苦悩は、それがあるとしても愛からできている。ユーリはあるとき軍隊につかまり、軍医として働かされる。そこで若者からなる敵軍が虐殺されるのを目撃し、死体をみてなんとも思わない味方の軍人に、「おまえ女を愛したことはあるのか」と聞く。軍人は「結婚していて子供も四人いる」と答える。ユーリは、人を愛することは、そのまま人間そのものへの愛につながるはずだと思っている。だがここの軍人はそうは思っていない。身内は身内で、他人は他人で、そこには絶対的な差があると彼は思っている。ユーリが不倫するのは、他人を単に他人だとは思えないからでもある。

もうひとり、ローラを犯したコマロフスキーといいう人物がいる。こいつは、自分の欲望にのみ忠実なゲスな人間として描かれ、事実みんなに嫌われる。ローラには殺されかけるが、それでもびくともしない。ところがコマロフスキーはそれから何年もたった後で、ローラの窮地を救うために二度も現れて、彼女を救う。一度目はユーリに追い出されるのだが、そのときに彼が「おまえは俺と自分が違う存在と思っているようだが、そんなことはない。おまえと俺は同じ穴のムジナなんだ」と叫ぶシーンがある。これは、じつはとても肯定的なセリフだ。というのも、コマロフスキーは性欲がまさっているとはいえ、人を愛する人間であり、愛した人のことを忘れない。さらに、一度受けた恩義を忘れず、それを返そうとする。これはこれで、じつに人間臭く、意外といいところがある。

このコマロフスキーの存在が、物語のメッセージを決定的に明確にしている。要するに、人は、二つに分かれる。身内だけではなく、他人をも愛していける人間と、他人どころか身内も愛せない人間。後者は武器を持ったら殺し合いを始める。前者は殺戮の中でも、身近な人間との生活をなんとか守ろうとする。結局のところ、人間にはその二つの種類しかいない。20世紀のロシアは、後者が圧倒的に多い国だった。それだけに、前者の人間は貴重であり、彼らの愛はそれが不倫でも尊く感じられる。3時間半という上映時間をかけて、ゆっくりと些細に語られる物語は、そのことをこれ以上なく明確に語っている。

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