リーヌ・シアマ『秘密の森の、その向こう』Petitte maman

あらすじ

8才のネリーは両親と共に、森の中にぽつんと佇む祖母の家を訪れる。大好きなおばあちゃんが亡くなったので、母が少女時代を過ごしたこの家を、片付けることになったのだ。だが、何を見ても思い出に胸をしめつけられる母は、一人どこかへ出て行ってしまう。残されたネリーは、かつて母が遊んだ森を探索するうちに、自分と同じ年の少女と出会う。母の名前「マリオン」を名乗るその少女の家に招かれると、そこは“おばあちゃんの家”だった──。

映画の常識をくつがえすような作品だ。私たちは普通、映画とはストーリーを追うものだと思って映画を見ている。しかしこの映画では、ストーリーはほとんどない。8歳の少女が手術を前にした少女に出会う。実はその子どもは実の母親だった、というストーリーはある。これはたしかに効果的なストーリーで、映画に興味をひきつける要素となっている。しかし、この映画では、ストーリーの展開が語られるのではない。映画の内実は、二人の少女の交流にある。二人の少女が出会ったときからすでに友達であり、互いを信頼していて、すぐに濃密な時間を一緒に過ごすことになる、その交流のさまが映画の中心である。二人の関係についての会話はほとんどなく、二人の交流のありさま、その一挙手一投足そのものを見る映画である。

子ども時代というのは、人生でも特別な時間だ。子ども同士というのは、出会った瞬間から会話がなくても仲良くなることができる。それは大人には不可能なことだ。また、子どもがほかの子どもを求める強さも、大人のそれとは比較にならないほど強い。子どもは同じ年頃の子どもと遊ぶことを強く求めるが、それは彼らの間のみ可能な非言語的なコミュニケーションを求めるからである。大人はほかの人間と理解し合うのに会話が必要だが、子どもはそうではない。子どもは互いの目線、しぐさ、手の動きなどで自分がその相手をどう思っているのかを表現することができるし、相手もその表現を理解することができる。それは猫がほかの猫を理解するのに会話が必要のないのと同じことである。

この映画の監督、リーヌ・シアマは、子どものそうした独特なコミュニケーションのあり方が、映画と相性がいいことを発見した数少ない、もしかしたら初めての映画監督であるかもしれない。この映画では、子どものじつにリアルな有り様が、言葉による説明なく、直接的に視覚的に語られる。この映画が、会話に重点を置くのではなく、人物同士の行動による直接的コミュニーケーションのあり方に重点を置く、そういうたぐいの映画であることは、冒頭の車のシーン、後部座席に座った少女が運転席の母親に無言でお菓子を与え、母親もそれを無言で食べるシーンにすでに現れていた。しかし、大人の母親と、少女では、互いが互いをどんなに大切に思っていたとしても、やはり目線が違うし、同じ心のあり方を持ってはいない。ところが、突然現れた8歳の母親と主人公のあいだには、その歳ごろ特有の交流が可能となる。同じ時間のなかを生きることができる。それは大人と子どもの間ではどうしても不可能なことだ。映画のストーリーは(ストーリーが重要な映画ではないとは言え)、そのことを観客に意識させることに成功している。

この映画では、子ども同士のあいだでのみ見られる表情、仕草、会話、息の仕方、そんなものが画面を通してこちらに生き生きと伝わってくる。こんな映画は実はあまりない。台湾のホウ・シャオシェンやエドワード・ヤンは子どもを描くのがうまい監督だが、それでもここまで子どもの中に入り込んで撮影してはない。確かにフランス映画なら、これと同じく二人の子どもの交流を描いた『禁じられた遊び』があるし、ドワイヨンの『ポネット』では当時4歳のヴィクトワール・ティヴィソルにヴェネツィア映画祭の主演女優賞を受賞させている。これらは子どもについての極めて優れた映画と言える。しかし、それらの傑作と比べてもなお、『秘密の森の、その向こう』ほど、子どもの表情にフォーカスし、クローズアップで子ども同士が持つ独特の時間そのものを観客に体感させるような映画は珍しいと言えるだろう。政治学者の藤原帰一さんはこの映画を「映画史に残る傑作」と評していたが、その評価には、映画というものの定義を揺るがす意味がある。というのも、私たちが普通思いうかべる映画というのは、ストーリーを追うものであって、人物の表情や二人の人物の交流を追うものではないからだ。藤原さんの評価のなかには、映画というものには、いままで映画がこなしてきた役割とはまったく別の役割があるはずだという認識がある。それは、映画とは人間の生きる時間そのものを写し取ることができるものだ、という認識である。つまり、この映画には、傑作というだけではなく、私たちが映画にもつ認識を変えてしまうかもしれないインパクトがある。

ちなみに、この二人の少女、現実の姉妹らしい。これが映画初出演。こういう、無名の役者(しかも子役!)を主役に据えた映画をフランス映画は出してくることがたまにある。作品そのものの魅力で映画が売れる世界があるからだ。日本ではこれは無理だ。日本の映画は1に役者があり、2に役者があり、3に役者がある。それなりの役者が出ていれば、映画の内容に関係なく売れる。べつにフランスの映画界が優れているとか、日本よりいいとかそういう話ではないのだが、これは事実だ。やはりフランス映画には、映画そのものの可能性を追求するような本質的な作品を生み出す土壌が未だに残っていると言えるだろう。これは奇跡的なことだと、この奇跡的な映画を見て思わざるをえない。

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