エドワード・ベルガー『教皇選挙Conclave』神なき時代の後の教皇庁とは
『教皇選挙Conclave』が面白かった。傑作だと言って良い。その名の通り、教皇の死から始まって、新しい教皇が決まるまでの、様々な儀式や言葉、そしてコンクラーベが多彩な登場人物を織り交ぜながら語られる。108人の枢機卿とシスティーナ礼拝堂を舞台にしたお話は視覚的にも美しい。
マンガの『チェーザレ 破壊の創造者』の最後の二巻でコンクラーベが描写されていたが、あれは1492年のものなので、500年以上の時代の開きがある。当時は礼拝堂のなかで枢機卿20人くらいが生活をして、文字通り外界から隔離されていたのだが、さすがに枢機卿が100人を超える現代だとそれは不可能なはずなので、どうするんだろうと思っていたのだが、普通に外の宿舎に泊まっていた。これはサン・マルタ館と言って、1996年に建てられたようだ。
細かいことを言うと、これはサン・ピエトロ宮殿を挟んで礼拝堂の反対側にあるので、部屋の位置によっては宮殿が見える。尤も、コンクラーベ中は窓が閉鎖されるので、外は見えない。映画では、すべてが終わった後に、窓が開けられ、宮殿からシスターが出てくるのが見えるのだが、これはグーグルマップで地理的に正しいことがわかるのでぜひ確認してほしい。もちろん映画に出てくる礼拝堂はセットだし、宿舎もセットだと思うが、最後のショットだけは現地で撮っていると思う。しかしもちろん、映画を見ているときはそんなことを意識はさせない作りだ。どれもセットだとは思えない出来だった
さて、500年以上離れている『チェーザレ 破壊の創造者』と『教皇選挙』のコンクラーベだが、意外と似ているところもある。それは、イタリア人以外の教皇という問題だ。1492年の選挙では初めてイタリア人以外の教皇であるアレクサンデル6世が選ばれた。そして現代では、三代に渡ってイタリア人以外が教皇に選ばれている。じつはイタリア人でない教皇というのは、16世紀のハドリアヌス6世以来存在しなかった。それゆえに、枢機卿の一人トランブレが「イタリア人以外の教皇がふさわしいと思うか」みたいなことを話すのだ。意外と15世紀と21世紀は近い。
映画自体のレビューとしては、これ
が優れていて、付け足すことはもうない。
素晴らしい映画だし、上のレビューにある通り、カトリックだけなくすべての宗教家の心に訴えかけるようなメッセージ性を持つ脚本だと思う。しかし、ここで語られるメッセージが素晴らしいものであるだけ余計に、「神の不在」をより意識させるのも確かだ。
主人公のローレンスは人間味ある人だが、はじめから自分が教皇にふさわしくないと言っており、それがどうも自身の信仰にあることがほのめかされる。さらに先代の教皇自身も教皇庁に疑いを持っていたことが話される。そして何より、登場人物の誰も神について話さない。神の名(と言っても名そのものではない)が語られるのは決まってお祈りとか儀式的な場面だけである。誰も神についてなど話さないし、神の意見というのがあるようにもふるまわない。これは徹底している。
さらに決定的と思われるのが、数々の不祥事や人間の醜さを目にしたローレンスが打ちひしがれて夜に一人で泣くとき、こういうとき信仰を持つ人間なら神に祈りそうなものなのだが、彼は祈らない。神に語りかけたりもしない。見ている現代の観客もそれを不審に思ったりもしない。ここでは、舞台の中でも外でも神はいないものとして扱われている。そして、そのことがもはや意識されてもない。
私は、これはこれで見事な描写だと思った。神なき時代において、まともな宗教組織や宗教家は神がいないことを前提として、それでも組織を保ち、活動を続けている。そしてそれは事実神なしでも可能であり、可能であったので、これからも可能であろう。そして、このような言説を語ることは宗教批判でもなんでもない。ただの事実確認である。
見事なサスペンス的ストーリーテリングの中にうまくひそみこんでいるような些細なものでしかないとはいえ、この映画は、神なき時代の教皇庁のあり方というものを、現代人にうまく見せていると思う。
ところで、じつはこのような教皇庁のありようというのは、15世紀に比べると遥かに健全である。当時は、教皇を選ぶのに教皇領とナポリやフィレンツェ、ヴェネツィアとの同盟関係を考慮にいれる必要があり、教皇によっては直ちに戦争がはじまることもあった。人物がどうかというよりは、世俗的な文字通りの政治的な理由で教皇を選ばなければならなかった。それに比べると21世紀の教皇選挙は、純粋に人物に基づいてのみ選べばよくなったわけだ。これは昔と比べるとはるかに健全で、平和的である。
あと、歴代の教皇もそれほど聖人ではなかったという例として、「児童への性虐待の報告を無視した教皇(明らかに先代のベネディクト16世のこと)もいた」ことが言及されていてすっげえ皮肉だなと思ったのだが、そこでついでに「マフィアの資金洗浄に手を貸していた教皇(ヨハネ・パウロ2世)もいた」ことが語られなかったのは不思議だ。どう考えてもこれが教皇庁発足以来最大の不祥事だと思うのだが、触れるのはいかんかったんだろうか?
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